約一週間分の衣類や日用品を入れたスーツケースを
妻と一緒に淡々と運び、
築地の国立がんセンターへ入院しました。
一日目は、入院の心得や四日間の治療スケジュール
の説明を受け、二日目から延べ96時間続く
抗がん剤点滴治療に入りました。
並行して一日一回、週5回の放射線治療に入りました。
暫く入れないだろうと言う事で入浴し、
6時に夕食・9時消灯の
大部屋・病院生活が始まりました。
消灯後なかなか寝付かれず一時間ほどして
ウトウトした途端、
向かい側で百獣の王の雄叫びが始まり、
殆ど寝ないまま一日目の夜が明けてしまいました。
睡眠導入剤を服用していましたが、
とても太刀打ちできませんでした。
6時に起床できるかどうかなど、無用の心配でした。
これが毎日続くのかと思うと、気持ちのふさぎ具合が
どんどん増加して行ったのを思い出します。
副作用を軽くするため、昼間はできるだけ水を飲むよう
心掛けていたので、昼寝はしませんでした。
猛獣使いさんとのお付き合いによる睡眠不足で、
暫くすると足元がフラフラし始めました。
同部屋のあとの二人の方が、
何事も無かったように振る舞っていたので
病院関係者にはあえて
クレームは言いませんでした。
毎日定時で、体重・体温・食事量・採尿(量)・便通の
回数をチェックをしていました。
それらを含めて主治医は、すべて順調に
推移していると判断されていました。
ただ、便通の回数に関して、
私が大いなる勘違をしており便秘になっていたにも
拘らずその認識が全く無く、一日数回の極少量の
排便を回数として報告していました。
そのため病院側が便秘である事を把握しないまま
退院してしまい、退院の翌日早朝に便が詰まって、
排便したくともできない状態になり
救急で警察病院に行き、
摘便して貰う事になってしまいました。
摘便という言葉をここで初めて知りましたが
その苦痛たるや、がんと闘う前に、
このままショック死してしまうのではないかと
思うほどでした。
抗がん剤の副作用として、
入院中から続いていた口内炎がひどくなり
退院後は食事制限無しでしたが、
自ら食事を制限しなければならなくなりました。
また臭いに相当敏感になり通院の電車内が
苦痛でしたが、幸いにも吐き気も起こらず、
下痢や発熱も無く放射線治療を
続けることができました。
ここで、8年前に食道がんステージⅠと診断され、
化学・放射線治療で全快し
現在も元気に生活している友人の事に触れておきます。
彼は職場の健康診断で食道がんが見つかり、
横須賀市の病院から
築地の国立がんセンターの食道外科を紹介されました。
受診時に切らずに治療したい旨を伝え、
放射線と抗がん剤治療を行い
放射線治療は横須賀から通いました。
ワンクール(6週間+1か月後の検診を含んだ期間)が
終わった段階で、抗がん剤治療を
もうワンクールやりましょうと主治医から言われて、
ツークール行ったと言う事です。
それ故、彼は会社を5か月休職したそうです。
私が、化学・放射線療法を選択したのも
彼のアドバイスであり、途中でめげずに
放射線治療に通院できたのも
彼の存在なくしては語れません。
私が一回目の退院後、放射線治療で通院する時、
中野から築地まで通うのもままならない
体調でありましたが、彼はこの時同じ体調で
横須賀から通っていたのだと自分に言い聞かせ
病院に向かいました。
それが、私の放射線治療において一日も
遅れず・休まず治療を受けられた結果に
つながったと思います。
一回目の入院で要した日数は7日間でしたが、
退院後の食事への影響が相当出たと思います。
喉の通りの良い柔らかいもの、
塩分・香辛料を極力抑えたもの、
デザートには必ず果物、
というメニューが毎日出されていたので、
退院後自宅でのメニューも準じたものでないと
食べることができなくなりました。
結果妻の負担が日に日に増大し、
相当な苦労を掛けたと思います。
それまで食べられていたものが、
味だったり臭いだったりが気になり、
食べることができなくなって行きましたが、
このような中、ポン酢が万能調味料に
なっていることに気が付きました。
生野菜を食べることができなくなり、
温野菜にして貰いましたが
それをポン酢に浸して食たり、
刺身を食べるのに醤油を受け付けなくなったので
代わりにポン酢につけて食べたり、
冷奴にポン酢をかけたり、
味付けしないで炒めて貰った肉をポン酢につけて
食べたりと殆どの食べ物にポン酢を使いました。